LOGIN透が、フライパンからスクランブルエッグを皿に移しながら答える。 皿の上に落ちた卵は、形だけならかなり自由だった。 「……これは、スクランブルエッグで合っていますか」 「合っている。たぶん」 「たぶん」 「料理本の写真とは、少し方向性が違うだけだ」 その言い訳があまりにも真面目だったので、私はフォークを持ったまま笑ってしまった。 私たちが今、全部を失った後に手元に残されたわずかな個人資産と、黒瀬たち元使用人らの協力を得て立ち上げようとしているもの。 それが、この児童支援基金だった。 テーブルの端には、何通もの封筒が重ねられている。 一つは、黒瀬から届いたものだ。彼は今、捜査に全面協力しながら、司法取引に近い形で証言を続けている。手紙には、硬く整いすぎた字でこうあった。 『私は罰を免れたいとは思いません。今後は記録を削る側ではなく、残す側として働きたいと願っています』 もう一つは、千尋からのものだった。 彼女は天野家を離れ、遠方の小さなホテルで住み込みの仕事を始めたらしい。便箋の端には、慣れない手つきで描かれた小さな白い花があった。 『私はまだ怖いです。でも、怖いままでも、言葉にしていいのだと、お嬢様に教えていただきました』 それから、佐伯から届いたメモには、相変わらず乱暴な字で、こう書かれていた。 『基金の記者発表をやるなら、余計な美談にはするな。あんたが嫌うだろうからな。必要なら、言葉の前と後ろを勝手に削られないよう見張ってやる』 私はその文字を見て、口元だけで笑った。 佳乃からは、返事のいらない葉書が届いていた。 遠方の小さな町の消印。宛名の字は少し震えていたけれど、本文は丁寧だった。 『帳簿を渡したことを、私は後悔していません。あなたが私を母と呼べる日が来なくても構いません。ただ、あなたが自分の足で歩いていることを、遠くから祈っています』 私はその葉書を、基金の書類と一緒に保管している。 許しも、和解も、急がなくていい。 泣き声を「うるさい」と切り捨てられ、抱き上げられることもなく、助けを呼ぶ言葉さ
水科家もまた、資金洗浄の共犯として父が逮捕され、家名も資産も何もかも消滅した。佳乃が私に帳簿を託してくれたおかげで、隠蔽の全貌を暴くことはできたが、彼女自身も厳しい取り調べを受けた後、今は遠方の親戚の元でひっそりと暮らしている。 私たちの手元に、天野本邸も水科の家も残らなかった。 私はコーヒーを一口飲み、ダイニングテーブルの方へ歩み寄った。 そこには、朝食のトーストの皿と、何十枚もの書類の束が、同じテーブルの上で微妙な緊張関係を保っていた。 透は几帳面に書類の角を揃えようとしているのに、自分の袖口にジャムがついていることには気づいていない。 「透さん、袖」 「袖?」 「赤ペンではなく、苺ジャムです」 彼は一瞬、世界の重要な前提が崩れたような顔をした。 「……気をつけていた」 「気をつけていても、つく時はつきます。人間なので」 そう言って濡らした布巾を渡すと、透はばつが悪そうに受け取った。こういう時の彼は、冷酷御曹司というより、失敗を報告する小学生に近い。 私が引き寄せた一番上の書類のタイトルには、『一般財団法人・児童支援基金 設立趣意書案』と印字されている。 その書類の右下には、まだ空白の署名欄があった。 設立発起人代表。 肩書きとしては、いくらでも別の呼ばれ方があった。旧天野家関係者。水科家元令嬢。事件の被害者。告発者。どれも間違いではないし、世間はきっとそのどれかで私を呼ぶだろう。 けれど、私はボールペンの先を紙に置き、ゆっくり自分の名前を書いた。 水科凛花。 隣で、透も自分の名前を書き込む。 天野透。 その筆跡は、婚約契約書で見た時のように冷たく整いすぎてはいなかった。線はかすかに揺れ、けれど最後の払いには、逃げない人間の確かな力があった。 二つの名前が並んだ紙面を見下ろしながら、私はふと、あの婚約契約書を思い出した。 あの日、私の名前は、死んでも誰も困らないようにするための準備として置かれた。 今、同じ名前は、声を持てない誰かの生を少しでも拾い上げるための、最初の線としてここにある。
朝の、ひどく冷たくて、けれど新しい季節の気配を含んだ風の匂い。 私は溶けていく光を見送りながら、深く、静かに息を吸い込んだ。 ウィーン……。 遠くで、コーヒー豆を挽く電動ミルの低いモーター音が聞こえた。 ゆっくりまぶたを持ち上げる。 視界の端から、柔らかい春の朝の光が、アイボリー色のコットンのカーテンを透かして部屋の中に滑り込んできている。 天野本邸の、あの分厚く重い遮光カーテンはもうない。 肌に触れるシーツも、冷たくなった高級なシルクではなく、柔軟剤の匂いがする、洗い立ての麻の感触だった。 私はベッドの中で小さく身をよじり、深く息を吐き出した。 肺の奥に、焙煎されたコーヒーの香ばしい匂いと、フライパンでバターがかすかに焦げる匂いが流れ込んでくる。 生きていた。 私はシーツを押し除け、ベッドサイドに置かれたカーディガンを羽織って立ち上がった。 フローリングの床を素足で踏む。 あのペルシャ絨毯のように、自分の足音を吸い込んでしまう無気味な浮遊感はない。ペタ、ペタと、自分の体重が床板に伝わる微かな音が、私の耳に確かに届く。 寝室のドアを開け、リビングダイニングへと続く短い廊下を歩く。 ここは、都心から少し離れた、緑の多い住宅街にあるマンションの一室だ。 広さは、天野本邸の私室一つ分にも満たない。 キッチンから、コーヒーミルの音とフライパンを置く音が聞こえた。 キッチンのカウンターの向こう側。 天野透が、洗いざらしの白いシャツにグレーのスウェットパンツというラフな姿で、コーヒーのドリップポットを傾けていた。 彼が細いお湯の線をフィルターに落とすたびに、コーヒー粉がふっくらと膨らみ、白い湯気とともに濃厚な香りが立ち昇る。 彼の手元に視線を落とす。 捲り上げられたシャツの袖から伸びる、右腕。 肘から手首にかけての、赤黒く爛れ、ケロイド状に引きつれたあの古い火傷の痕。 彼はもう、その傷を隠そうとはしていなかった。 包帯を巻くこともなく、春の朝の光の下に堂々と晒したまま、左手で
匂いがない。 温度もない。 視界の果てまで、ただ果てしない白だけが無限に広がる空間。 私は自分の足の裏が何を捉えているのかもわからないまま、その完全な静寂の中に立っていた。 あの時と同じだ。 非常階段の冷たい手すりを乗り越え、風の轟音の後に全身を包み込んだ、あの生温かくひどく粘度の高い泥のような暗闇を抜けた先。 自分が誰なのか、なぜここにいるのかすら曖昧になる、意識の漂白。 だが、今の私はあの時とは違う。 私のみぞおちのあたりには、ドクン、ドクンと規則正しく血液を送り出す心臓の鼓動が、確かな重さを持って存在していた。 視界の少し先に、小さな影が浮かび上がった。 ゆらゆらと、ひどく頼りなく揺れる、皺だらけの赤い手。 声を持たず、自分の痛みを訴える言葉の代わりに、ただ不快なノイズとしての泣き声を上げるしかできなかった、あの短い二度目の生の肉体。 酸えたアルコールの匂いと、安い煙草の煙に塗れた部屋で。 誰の耳にも届かない悲鳴を上げながら、車のダッシュボードに頭を打ちつけて呆気なく消えた、あの名もなき赤ん坊。 私はゆっくり足を踏み出し、その頼りなく揺れる小さな赤い手に向かって、自分の右手を伸ばした。 指先が空中でそっと触れ合う。 温度はなかった。それでも、小さな指は消えずにそこにあった。 「……大丈夫よ」 私は白濁した空間に、自分自身の声帯を震わせた音を響かせた。 誰かに切り取られることも、ノイズとして消費されることもない、私だけの真っ直ぐな言葉。 「私は今、私の声で息をしているわ」 小さな赤い手が微かにピクリと動いた気がした。 非常階段の風と、赤ん坊の泣き声が、一度に胸へ戻ってきた。 その結果、言葉を持てない命の理不尽さを、骨の髄まで味わうことになった。 生まれた場所が違うだけで、声を持たないだけで、いとも簡単にゴミのように踏み潰されていく命があること。 その痛みを知っているからこそ、私は現世で、天野美津子が用意した「言葉を奪い、精神を殺す箱庭」の中で、決して自分の輪郭を手
「書かないと、不安になるの」 私は正直に答えた。「書いておかないと、また誰かに違う形で覚えられてしまう気がする。私が何を見て、何を感じて、何を選んだのか。残しておかないと、消えてしまう気がするの」 透はすぐには返事をしなかった。 包帯の巻かれた右腕を膝の上に置き、ゆっくり息を吐く。窓から差し込む光が、彼の火傷の痕を覆う白い布を淡く照らしていた。「消えない。……少なくとも、僕が勝手に消さない」 やがて彼は低く言った。「君の声は、僕の中に残っている」 顔を上げると、透はまっすぐ私を見ていた。「君があの温室で何を言ったか。僕の手をどう掴んだか。僕がまた一人で残ろうとした時、君がどんな声で怒ったか。僕は覚えている」 肋骨の内側が、痛いほど静かに震えた。「でも、人の記憶は曖昧よ」「そうだな。だから、君が疑うのは間違っていない」 透は小さく頷いた。「だから、記録は必要だ。君が書くことも、僕が覚えていることも。どちらか一つで足りるとは思わない。……ただ」 彼は言葉を少し探し、それから不器用に続けた。「今は、君一人で全部を紙に背負わせなくてもいい。君が忘れそうになったら、僕が言う。僕が逃げそうになったら、君が怒る。そうやって、二人で前後をつなぎ直していけばいい」「あなたも、残してくれるの? 私一人のためじゃなくて、あなた自身の言葉で」「僕の言葉でよければ」 透は困ったように、口元だけで笑った。「うまくは書けないかもしれない。けれど、君が一人で証明し続けなくてもいいように、僕も覚えて、必要なら書く」 私はメモ帳へ視線を落とした。 誰かと同じ出来事を、同じ温度で確かめ合うためにも使えるのだ。 私は書きかけの行の続きを、ゆっくり書いた。『透さんと話す。記録は残す。けれど、私は記録だけに生きるのではない。生きて、話して、確かめ続ける』 ペン先を紙から離す。 その一行を読み返してから、私はメモ帳をそっと閉じた。
透の左手が伸び、膝の上に重ねていた私の手を包んだ。「……そうか」 彼は掠れた声で呟き、私の手へ額を押し当てた。しばらくして顔を上げると、目元が赤かった。「僕も、君と生きたい」 言葉を探すように、途中で一度息を止める。「遠くへやるのではなくて。怖くても、間違えても、隣にいる方を選びたい」「また、勝手に決めてしまうかもしれない」「その時は怒ります」「……頼む。遠慮なく止めてくれ」「止めても聞かなかったら?」 透は少し考えた。「その時は、もっと怒ってくれ」「怒るだけで済まないかもしれません」「何をされる」「少なくとも、勝手に用意した航空券は破ります」 透は返事に詰まり、やがて小さく頷いた。「あれは、もうしない」「お金で解決しようとするのもです」「……努力する」「そこは、やめると言い切ってください」「やめる」 今度は迷わなかった。「当然です」 あまりに真面目に答えるので、私は笑った。透も遅れて、目元だけを緩めた。 窓の外では、冬の雲がゆっくり流れていた。 窓の外で雲が動くあいだ、私たちは手を重ねたまま、次に聞くべき言葉を急がなかった。 透の手は温かかった。以前なら、その温度に意味をつけ、彼が本当は何を考えているのかを読み解こうとしただろう。 今は、分からないことは聞けばいいと思えた。聞いても答えない時は、答えるまで待つか、怒ればいい。それは記録や証拠より曖昧で、だからこそ人と生きる方法なのだと思う。 窓から入る冬の光が、重なった手を照らしていた。 退院の日取りが決まったのは、それから三日後の午後だった。 病室の窓の外では、冬の雲が流れている。ベッド脇の小さなテーブルには、看護師が置いた常温の水と、退院手続きの書類が揃っていた。 私は枕元の引き出しから革張りのメモ帳を取り出した。 火災の夜、黒瀬が守り抜き、警
◇ カチャ、ターン。 エンターキーを叩く、乾燥したプラスチックの音。 古いコピー機が吐き出す排熱と、トナーの焦げたような微かな匂い。 喉の奥には、紙コップの底で冷え切った、安物のインスタントコーヒーの酸味がこびりついている。 モニターの青白い光が、顔の輪郭を冷たく照らし出していた。 橘日和。二十九歳。 中堅企業の広報担当。それが、数年前まで自分に割り当てられていた名前と肩書きだった。 画面に並ぶのは、無数のタイムスタンプと、社内チャットのログ。 『限定公開前の顧客リスト、誤送信されてるっぽいんですけど』 『え、マジ?』 『やばい、すぐ上に上げないと』
鼻の奥に、かすかなインクの匂いが残っていた。 手の中の金属製の万年筆は冷たく、指先に重い。 視線の先には、クリーム色をした分厚い上質紙。 その最上部に、逃げ場を塞ぐような活字が印字されている。 『婚約契約書』 黒光りする無垢材のデスクは、よく磨かれていて、触れれば指先まで冷えそうだった。空調の微かな音だけが、広い部屋の静けさに沈んでいる。 息をすることさえ、この整いすぎた空間では場違いに思えた。 万年筆の軸を、無意識に指の腹で転がす。 握るたびに、手のひらの熱が少しずつ奪われていく。その重みは、これから背負うものの重さそのものだった。 署名欄の片側には、す
長身が視界の一部を覆う。 微かなシトラスと、冷たい夜気を思わせる匂いが、ほんの一瞬、分厚いデスクを越えて鼻先を掠めた。 天野透が、たった今書き終えられたばかりの『婚約契約書』を見下ろしている。 骨ばった、長く美しい指が、紙の縁へゆっくりと伸びた。 まだインクの乾ききっていない『水科 凛花』の文字。 ほんの数分前まで、ただ流されてここに座り、恐怖のままに押し付けられた運命をなぞるだけだった女の名前。 透の長いまつ毛が、伏せられた瞳に濃い影を落としている。 彼の指先が、インクの染みに触れる寸前で、ピタリと止まった。「……見事な覚悟だ」 低く、冷えた石に触れるような声だった。
けれど。 あの赤ん坊の身体で、身体の奥まで理解してしまったのだ。 言葉を持たないことの恐怖を。 生きたくても、生きられない命があることを。 声すら出せずに、ただ誰かの都合で踏み潰されていく命が、世界のどこかに確かにあることを。 なら、自分は。 今度こそ、誰の評価にも、どんな悪意の切り取りにも、自分の命を明け渡したりしない。 黙ってやり過ごすだけの生存戦略は、もう捨てる。 自分の足で、この冷たい現実の上に立ち、自分の肺で、望むだけの酸素を吸い込んでやる。 誰かに奪われた言葉の前後関係は、自分の手で必ず取り戻す。「……やる」 声は、微かに震えていた。 それでも、言葉だけ